都知事選と料亭の「宴のあと」
三島由紀夫の小説の中でも、モデル小説として、都知事選を舞台にした実在の政治家をモデルとした長編である。1960年に雑誌「中央公論」に連載され、新潮社から単行本として刊行された。
主人公は、高級料亭「雪後庵」の女将、福沢かづである。新潟出身で、東京で苦労しながら、政界、特に保守党御用達の料亭を切り盛りすることになる。保守党の重鎮とも顔なじみであり、政治世界、中でも保守政治の手法を図らずも身に着けていった。
しかし、彼女が恋心を抱いた人は、政治理念から保守党から革新党に鞍替えした野口雄賢であった。
革新党は都知事選に野口を担ぐことになり、落選を経験している野口は、政界復帰を目指すことになる。野口と結婚したかづは、野口には内緒で雪後庵を抵当に入れ、選挙資金を用意し、法すれすれのところで、革新党の選挙参謀山崎の助言を得ながら、事前の選挙運動を始める。
このかづの行為は野口の知るところとなり、政治理念に朴訥なまでに不器用な野口の逆鱗に触れる。保守党はこのかづの選挙運動に脅威を感じ、かづの過去の経歴などのスキャンダラスな冊子をばら撒き、追い落としを図る。また、保守党の候補に大量の資金投入を図るのである。
野口は落選し、諦観の境地から、政界から引退した。野口は、後始末として、かづが野口に相談なく作った借金によって、抵当に入っている雪後庵を売り払う他、手立てはなくなっていた。その事後処理を山崎に頼み、自分は、かづとともに、その後の穏やかな暮らしを演じようとしていた。ゲーテの「旅人の夜の歌」*にあるように。
しかし、かずの方はそこに収まることができなかった。かつて懇意であった保守党議員の人脈を利用することを考えていた。奉加帳を回し、雪後庵の復活と女将としての復帰を図るのである。
* 「旅人の夜の歌」 Wandrers Nachtlied は2篇あります。原詩がこの2篇です。
Wandrers Nachtlied
Der du von dem Himmel bist,
Alles Leid und Schmerzen stillest,
Den, der doppelt elend ist,
Doppelt mit Erquickung füllest;
Ach, ich bin des Treibens müde!
Was soll all der Schmerz und Lust?
Süßer Friede,
Komm, ach komm in meine Brust!
Wandrers Nachtlied
Der du von dem Himmel bist,
Alles Leid und Schmerzen stillest,
Den, der doppelt elend ist,
Doppelt mit Erquickung füllest;
Ach, ich bin des Treibens müde!
Was soll all der Schmerz und Lust?
Süßer Friede,
Komm, ach komm in meine Brust!
Eingleiches
Über allen Gipfeln
Ist Ruh,
In allen Wipfeln
Spürest du
Kaum einen Hauch;
Die Vögelein schweigen im Walde.
Warte nur, balde
Ruhest du auch.
「宴のあと」解説
小説の中で、常に意識の根底にあるのが、かづの「由緒ある墓に入ることへの切望」である。この墓へのこだわり、無縁仏になることの恐れが、かづの行動を規定しているように思われる。かづの歩んできた過去の詳しいことには触れていない。しかし、新潟での貧しい出生や、身一つで出てきた東京での苦労が、彼女のよりどころとなる何かを求めたのかもしれない。それが、死後を意味する墓であったかもしれない。しかし、かづのよりどころは本当に死後のことであったのか、彼女が選んだ道を考えると、そうともいえないかもしれない。
かづが最後に選んだものは、野口との老齢の諦観ではなく、自分が育ててきたかづのアイデンティティともいえる雪後庵での生活であった。
『宴のあと』(新潮文庫)三島由紀夫 著 改版 新潮社 1969年
ISBN 978-4101050164
「宴のあと」裁判
小説「宴のあと」は、モデルとなった政治家からプライバシー侵害として告訴され、裁判となっている。これは有名な、プライバシー侵害の判例の初めとされる有名な判決を得ることになる。
東京地裁 昭和39年9月28日判決
(昭和36年(ワ)第1882号:損害賠償請求事件)
(下民集15巻9号2317頁)
判旨を参照すると、プライバシー侵害とされる要件は次の点とされた。
(イ)私生活上の事実、または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあることがらであること、
(ロ)一般人の感受性を基準として当該私人の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められるべきことがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによって心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること、
(ハ)一般の人にまだ知られていないことがらであることを必要とし、このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたことを必要とするが、公開されたところが当該私人の名誉、信用というような他の法益を侵害するものであることを要しない。
しかしながら、三島はこの判決に対して、小説というもののに関わっている読者も含めて、侮辱していると抗議している。(「私だけの問題ではない――小説『宴のあと』判決に抗議する」週刊朝日 1964年10月9日号 p. 144-147)